こんにちは、レチェです。
次期NHKの朝ドラ「エール」に柴咲コウさんが、初出場されます。
柴咲さんは、世界的オペラ歌手・双浦環役で出演するそうです。
この記事では
- 双浦環の実在モデルは誰?
- 朝ドラ「エール」双浦環の実在モデルは三浦環
- 三浦環を調査!
- WIKIやプロフィール
- 日本初のオペラ
をまとめています。
Contents
朝ドラ「エール」双浦環(ふたうらたまき)の実在モデルは誰?
出典:https://columbia.jp/artist-info/miuratamaki/prof.h…
3月30日より、始まる次期朝ドラ「エール」で柴咲コウさんの
初出演が話題になっています。
その柴咲コウさんが演じる双葉環(ふたうらたまき)さんは、実在するモデル
のようですが。
実在モデルは誰?
有名なオペラ歌手・・・・・!!
三浦環:日本人初の世界的なオペラ歌手として活躍
大村裕美:日本人史上初の快挙、名門プッチーニフェスティバル2年連続『蝶々夫人』
主演。
中村彰子:世界の舞台で活躍する日本人ソプラノ歌手。
などが挙げられるが
NHKの発表
世界的に活躍するオペラ歌手。大正12(1923)年秋、11歳の音(清水香帆)は、豊橋の教会で出会ったオペラ歌手・双浦 環の歌声に心ひかれる。この出会いがきっかけで、音はプロの歌手を目指すことになる。月日はすぎ、昭和7(1932)年1月、東京の音楽学校で音(二階堂ふみ)は憧れの双浦 環と再会。双浦 環はのちに音をはじめ、裕一(窪田正孝)にも多大な影響を与える存在となる。
大正時代活躍したオペラ歌手(明治17年~昭和21年)の三浦環さんではと
思われます。
双浦環の実在モデルは三浦環
https://twitter.com/asadora_nhk/status/1224180972624732160
女優・柴咲コウさんが演じる双葉環さんのモデルは、日本人初の国際プリマドンナ
(オペラの主役となる女子歌手)として活躍した三浦環さん。
双葉環さん演じる柴咲コウさんは「三浦環さんの資料も拝見しました」と言っているので
双葉環さんは、日本人初の国際プリマドンナとして活躍した三浦環さんで、間違いないでしょう。
三浦環を調査!
三浦環さんを、調査してわかったのですが
オペラ歌手として、大変な活躍をしていた方だということです。
三浦環さんについては、「日本人の足跡 二」という書籍に
海外にとびだし、偉大なる足跡を残した日本人の一人として書かれてます。
その書籍によると
三浦環
1884年、30歳の時にロンドンでデビュー。
翌年「蝶々夫人」初出演後、世界の名だたるオペラハウスを20年に
わたって湧かせ、海外において2000回公演という前人未到の記録を打
ち立てている。
作曲者のプッチーニが「私の夢を実現してくれた」と
三浦環の蝶々夫人を絶賛しています。
今回の朝ドラ「エール」での。双浦環を演柴咲コウさん。
蝶々夫人を歌われるとと思いますが。
今から楽しみです。
三浦環のWIKIやプロフィール
名前:三浦環
出生名:柴田環
生誕:1884年2月22日
出身地:日本・東京府東京市京橋区
死没:1946年5月26日(62歳没)
学歴:東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)卒業
ジャンル:オペラ
職業:歌手
活動期間:1911年~1946年
参考:wikipedia
日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。
十八番であった、プッチーニの『蝶々夫人』の蝶々さんと重ね合わされて、
国際的に有名だった。
元の名前は、柴田環、次いで藤井環といったようです。
1884年(明治17年)2月22日東京府東京市京橋区(現:中央区内の京橋地域)に
公証人の柴田熊太郎父に、永田登波の間に生まれ、3歳の頃から日本舞踊を、6歳の頃から
長唄と琴を習い始めています。
裕福な家庭に生まれたと思われる環は、
虎ノ門の東京女学館に入学。
同校で東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)出身の杉浦チカから音楽家になることを強くすすめられる。
そこで意を決した環は、東京音楽学校に入学。
ピアノを瀧廉太郎に、声楽を幸田延に師事。
さらに、ヴァイオリンをアウグスト・ユンケルに学ぶようになります。
父の勧めで入学直前に陸軍三等軍医正と結婚。
この結婚は、養子を取るなら、進学しても良い言われ音楽の勉強をしたい彼女は
東京音楽学校に入学を果たしています。
よほど、音楽が好きだったみたい環。
入学を果たした環は、当時では珍しかった自電車通学をし
たくさんの見物人が集まり「自転車美人」という言葉が
生まれています。
後輩である山田耕作さんなどは、通せんぼをしたというエピソードもあり、
環若い頃は、相当美人であり、世の男性にもてていたようです。
そんな彼女が音楽学校に進学するという選択は間違いでなかった。
後に、その音楽学校で教鞭を取っています。
結婚は、彼女が好んだ相手でなかったようで
1907年に離婚しています。
離婚後は、魅力ある彼女にプロポーズが殺到。
環さんの才能を理解してくれた再婚し、海外に・・行きます。
日本人初のオペラ
出典:http://www.nikikai21.net/blog/2017/10/07-1962.html
環は、1903年(明治36年)7月23日、湊音楽堂において催された日本人の手による
初めての公演に出演し、成功を収めています。
1904年卒業後、奨学金を得て研究科に入り、「授業補助の辞令を受け、声楽を教えるようになります。
その後助教授になった彼女は、あの有名な山田耕作氏などを指導しています。
1911年に帝国劇場に所属、1912年3月レコードの初吹き込みを行い、プリマドンナとして
活動を活動を続けています。
その後、欧州各国で活躍した環さんは、今でも日本人として誇らしく思ってもいいくらい、高い評価を得ています。
例えばシカゴでは、彼女のオペラを聴き終わり、感極まったある婦人から
「ピンカートンのような男はアメリカのうち例外です。多くのアメリカ男性はあんな悪いことはいたしませんから誤解しないでください」と涙を拭き、謝れました。
というエピソードもあります。
さらに、環は36歳の時にプッチーニから生涯忘れられない言葉を聞いています。
「イタリアはもちろん、世界のプリマドンナが大勢毎晩のように日傘を持ってステージを歩き、歌いますが、みんな私の理想とする蝶々夫人をやってくれませんでした。
しかし、三浦環さんの蝶々さんは、私が心に描く幻のバタフライが舞台に現れたともいますと最大の賛辞を送っています。
プッチーニが生み出した多くの作品のヒロインのうち、ことのほか環の蝶々夫人がお気に入りだったそうです。
その後、戦争も激しくなり帰国、あれほど海外で評判だった蝶々夫人。
日本では「日本女性が外国人に弄ばれて自ら命を絶つのは国辱として、上演が許されませんでした。
しかし、三浦環さんには数々のエピソードがあります。
戦争中、慰問に行った際、憲兵隊に軍歌を歌えと言われても
「オペラ歌手ですから」と毅然とした態度を変えなかった。
淡谷のり子さんも、もんぺを嫌がり、きちんと化粧して歌ったという逸話が残って
いました。
環は、必ず朝5時に起きて発生練習をしていたという。
さらに、病に伏していた祭お見舞いに来たテノール歌手の藤原美江に
「天国で歌えるようにドビュッシーを練習しているよ」
そして、死後病理解剖に立ち会った教授は
「光沢と色彩、形態共に実によく整っていて十分発達した若い人の咽喉像そのものである」
オペラ歌手として、生まれてきたような三浦環。
小柄だったが可愛らしい。
ただ日本では、スキャンダラスな印象があり。気の毒に思われるが
真実の三浦環の偉大さは今後、人々に伝えられて行くことを望みたい。
まとめ
この記事では、朝ドラ「エール」に出てくる双浦環さんのモデルは
三浦環さんだと紹介。
その三浦環さんについて、いろいろ調べてきました。
三浦環さんは、知れば知るほど日本が誇るオペラ歌手だった。
その活躍は、日本のみならず、海外でも知られる人となり、本当の
三浦環さんを知ったボクは、なんと素敵な方なんだろう。
彼女の歌声を聞きたいう思いにかられました。
それでは今日はこのへんで
最後までご覧頂き有難うございました。
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